この夏 御便殿が 家引きにより 移転。
浜田市の建物として 活用される事となりました。
移転に伴い 建物を調査する機会が ありました。
以下 私的見解を まとめてみました。
御便殿を調査して
1. はじめに
御便殿は、明治40年(1907)5月31日の東宮殿下(大正天皇)の行啓に際し、浜田での3泊の御宿舎として松平武修子爵により新築されたものである。
建築場所は、浜田藩時代 藩主の庭園があったと考えられる松平子爵家所有の城山南西山麓旧御茶屋(掬水(きくすい)亭)跡が選ばれた。
新築工事は、日露戦争が終わった明治38年の翌年 明治39年(1906)10月 着工した。
地元浜田町内からは労力奉仕、周辺地区からは寄付金の提供などを受け地区一丸となって工事進捗をはかり、短期間に完成したと言われている。
その後、御便殿は 松平家居館、浜田公会堂、図書館、中央公民館に利用され、昭和30年代に立正佼成会所有となり、浜田教会道場として現在にいたっている。
2. 現況
建物を、以下の視点から考察する。
2-1 骨組み
この御便殿は、建築基準法のない時代に建設された。過去の地震を踏まえ千年以上かけて成立した日本の伝統的な建物の建て方すなわち地震時の水平力を柱で処理し、処理しきれない力は、貫きや土壁により処理する考え方で建設された建物である。
(参考)
建築基準法の前身である「市街地建築物法」は、大正12年 関東大震災の3年前大正9年に施工された。現在の建築基準法は 昭和25年に施工されている。
この建築基準法で、筋かいによる考え方が導入され、千年以上かけて経験則の上に構築されてきた日本古来の木造工法が否定されることになった。現在やっと研究も進み過去の日本の木組み構造的なすばらしさが最認識され、計算でも実証できるようになっている。
2-2 屋根
建設当時明治38年には 現在のような高い建物が存在しなかった。"遠くから見て一目でその建物だとわかり"、近くでは"その高さを感じさせないように"配慮して建てられた建物である。
屋根は、それを裏付けるように、高さを感じさせないよう大屋根と庇屋根の2段の屋根になっている。また大屋根は、荘厳さをだすよう照りの入った入母屋の屋根が採用され、大棟、降棟、隅棟がその屋根を飾っている。
入母屋破風の3角部には、木連格子が入っていて、屋根の袖には蓑甲か゛あり破風部に直線ではだせない柔らかさを持たせている。
入母屋破風の三角部には、建物を火災から守るため火伏せの呪いとして懸魚が、浜田川に面する西側以外の各面についている。
大屋根は、同じ高さ、同じ梁間長さで2つ有り、この2つの大屋根が、平行にずれるように配置されていて、西側の浜田川対岸より見ると城山を背景にして、とても綺麗に見えたと思える。
南側の玄関と東側の裏玄関には、玄関というのを意匠的にしっかりわからせるために、権現作りの屋根がかかっている。
2-3 小屋組み
大屋根を支える小屋組みは、野物の丸太を組合す形でできている。基礎が玉石になっているので、建て方として1度仮組みをして建物の水平をとり玉石の上にのせていくので、仮組み用の梁を先に掛けその上に梁をのせる形で3段組みになっている。
大屋根の水平剛性は、貫きでとってある。
軒の深い庇をつくるために、桔木が使ってあり、それを隠すために、意匠的に化粧垂木が、扇だるき状に配置してある。
垂木は、照りをいれるための限界サイズは45角ピッチ303_で構成されている。
100年経過する中で、前の間は改造されその形跡は小屋裏にしっかり残っている。前の間の小屋裏には、大広間にするために邪魔になる柱が切飛ばされ、その切られた柱を支えるための鉄骨のトラスが入っている。鉄骨トラスを入れた面の水平剛性をあげるための鉄筋ブレースも入っている。
屋根面を構成する梁の大きさは、丸太の大きさが240Φで、大工さんに言わせるともう一サイズ上でもよかったのではという小ぶりな大きさであった。
2-4 基礎
主軸組みの基礎周りは、外周部は布石敷きで、建物内部は切石の大きな玉石が設置されている。
柱は、布石又は玉石の上の地覆土台にのり、畳下の高さで 足固め で拘束されている。
2-5 書院造り
御便殿は、主室に、座敷飾りの床(とこ)・違棚・書院・帳台構を備えた建物の様式を備えた建物の様式をとっており、書院造りといえる。
昔よりお客さまを迎える 部屋のしつらえに使われてきた "床の間"視点より、どの部屋が一番格が上の床の間か調べた。
現在 床の間は、建物西側角の和室8帖と北側和室10帖に残されている。
床の間を、家相、構成、間取りの視点より比較してみた。
【家相】
西側角の和室8帖:床の向きは 南向き⇒最良相
北側和室10帖 :床の向きは 北西向き⇒吉相
【構成】
西側角の和室8帖:付け書院と違い棚・天袋をもつ床脇より構成されている。
書院の障子には、書院に好んで使われる細間の縦繁障子
(縦繁組子障子(柳障子と呼ばれることもある))が使われ
ている。付け書院からの光は、向って左側から入り
本勝手の床の間となっている。⇒ 真 のしつらえ
北側和室10帖 :付け書院と地袋をもつ床脇より構成されている。
書院には、透かし彫りと細間の縦繁障子が使われている。
本勝手の床の間となっている。⇒ 行 のしつらえ
【間取り】
西側角の和室8帖:前の間の間取りは不明であるが、庭が一番よく見える
位置にある。部屋の前には 畳廊下があり、その周囲
には、深い軒先を持つ建具のない半屋外空間の廊下
(現在はサッシがある)がひろがり、御便殿の部屋の中
で一番環境のいい部屋
北側和室10帖 :部屋の周囲は、廊下、その先は 坪庭 につながる。
この建物の中で 西側角の和室8帖を公的な部屋と
すれば、この部屋は 私的な部屋と考えられる。
2-6 全体の間取り
この建物は、東宮殿下(大正天皇)の行啓に際し、浜田での3泊の御宿舎として使われ、松平家居館としても使われていたと記述がある。
現在の建物の平面からは、生活に必要な、台所、トイレ、風呂、使用人の部屋等はみあたらない。
建設当時、建物と庭の関係と間取りから推測して、台所、トイレ、風呂、使用人の部屋等は、現在の立正校正会の青年館附近に、別棟で、廊下でつないだ間取りように思える。
3 まとめ
建物調査より、平行にずれた2つ大屋根の形状、建物の外周を廻る廊下、
畳廊下が周囲を廻り真の格式を持つ床の間のある8帖の間等に、明治末期 松平家の子爵の居宅として使われていた御殿建築の様式が読みとれる。
この建物の小屋組は、外観の立派さ、屋根の大きさ、建物の高さから想像した木材のサイズよりひとまわり小さい大きさであった。
短期間に完成したという記述もあり、工期の短さも影響したかとも想像できる。
できるなら、途中改造された鉄骨をはずし、建設当時のように、木だけの骨組みの建物にして、骨にかかる負担を減らしてやることができればと、かなわぬことを思い報告書を終わる
平成18年6月
有限会社田原建築設計事務所
田原道人
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